労災事故における使用者に対する損害賠償請求権の放棄に関する裁判例を紹介します。

岩瀬プレス工業事件(東京地裁平成20年11月13日判決)

 工場内でプレス作業中,操作を誤り負傷した労働者が,会社退職時に70万円を受領し,会社に対していかなる債権も存在しない旨の念書が作成されたという事案です。労働者が会社に対する損害賠償請求権を放棄したのかどうかが,争点になりました。

事案の概要

 原告は,プレス作業を開始し,本件安全装置が機能しない範囲から右手をスライド下に入れたまま,本件プレス機械を作動させたため,作業開始1回目のスライド下降時にスライドに右手指先をはさまれ,右手示指及び中指の各中手指節間関節以上を欠損するなどの傷害を負った。

 被告代表者は,本件事故後,原告を自分の車で救急指定病院である病院に搬送した。その後,原告は,同病院から医科大学付属病院に転送され,同日,同病院に入院した。原告は,平成17年3月25日,症状固定となった。

 江戸川労働基準監督署長は,同年6月9日,原告の本件事故による後遺障害につき,①右手示指及び中指の各中手指節間関節以上が欠損しており,「1手の母指以外の2手指を失ったもの」として労働者災害補償保険法施行規則別表第1所定の後遺障害等級第9級の8に当たり,②右手母指指節間関節及び環指近位指節間関節の可動域が左手に比べ2分の1に制限されており,「1手の母指を含み2手指の用を廃したもの」として後遺障害等級第9級の9に当たり,③肩関節及びひじ関節の可動は正常であり,手関節のうち右手関節に多少の制限が認められるが,後遺障害等級には当たらない,④右上肢が麻痺により運動性及び支持性がほとんど失われている状態であり,「局部にがん固な神経症状を残すもの」として後遺障害等級第12級の12に当たり,上記①及び②により,後遺障害等級第8級に当たるが,原告の障害の程度は,「1手の5の手指又は母指を含み4の手指の用を廃したもの」(後遺障害等級第7級の7)よりも重いため,直近上位である後遺障害等級第7級に当たることになり,上記④との併合の結果,後遺障害等級併合第6級に当たると認定した。

 原告は,同年10月ころ,被告に復職したが,平成18年3月22日,被告に退職願を提出し,被告を退職した。

 原告は,同年5月1日,B及び立会人であるEと共に被告の事務所を訪問し,被告から70万円を受領した。その際,同日付け念書が作成された。

 本件念書には,「今般,貴社を退職するにあたり,貴社に対していかなる債取も存在しない事を確認致します。」と印刷され,その下に「金70万円確かに領収致しました。」との手書きの記載があり,上記記載の下に,B,原告(ただし,「F」と記載されている。)及びEの氏名が記載され,Bの氏名の右横に指印,原告の氏名の右横に原告の印による押印がされ,Eの氏名の右横に(立会人)との記載がそれぞれされている。Bの氏名の記載及びその右横の指印,原告の氏名の記載及びその右横の押印はBがしたものであり,Eの氏名の記載はEがしたものである。

 原告が被告に対し,本件事故が被告の安全配慮義務違反によって生じたものであり,本件事故により原告は,後遺障害等級第5級4号に当たる後遺障害を負ったなどと主張して,債務不履行による損害賠償請求権に基づき,8703万4925円及びこれに対する本件事故の日である平成15年10月3日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた。

裁判所の判断

 裁判所は,会社の安全配慮義務違反を肯定するとともに,原告に8割の過失があると認定した上で,損害賠償請求権の放棄について次のように判断しました。

 原告は,本件念書に基づき被告から70万円を受領することで,本件事故による被告に対するその余の損害賠償請求権を放棄するとの意思表示をしたということができる。

 原告は,平成18年4月ころから,被告との間で,本件事故による原告の損害に対する補償について交渉しており,本件示談契約が成立した同年5月1日ころの交渉も,Eを通じての原告からの申出によるものであり,本件念書の作成経過に照らしても,原告は,本件示談契約の内容を十分に理解していたことが明らかであり,被告が原告の無知と窮迫に乗じて本件示談契約の締結に応じさせたということはできない。また,上記70万円という額は,原告が本件示談契約締結当時,本件事故に基づき被告に対して有していた損害賠償額に比して不当に低額であるとまでいうことはできない。したがって,本件示談契約に係る原告の意思表示に錯誤があるということはできないし,本件示談契約が公序良俗に反して無効であるということはできない。