示談による損害賠償債務の免除と労災保険の関係を判断した最高裁判決を紹介します。
小野運送事件(最高裁昭和38年6月4日判決)
労災の被災労働者が、加害者である第三者と示談を行い、損害賠償債務を免除した場合の労災保険給付について判断した判決です。
労災事故の発生が、第三者の不法行為が原因である場合、被害者である被災労働者が、加害者である第三者と示談して、損害賠償請求権を放棄した場合に、労災保険の給付を受けることはできるのか?が問題になりました。
事案の概要
被災労働者Xの代理人Aと加害運転者Yの使用者たる被上告人の間においては、労災保険給付がなされるより以前の昭和32年10月21日に、Xは自動車損害保険金のほか、慰籍料及び治療費等として2万円の支払を受けることで満足し、その余の賠償請求権一切を放棄する旨の示談が成立し、代理人Aからその旨の報告を受けたX本人もこれを了承した。
最高裁の判断
最高裁は、示談によって、第三者の損害賠償債務を免除した限度で、労災保険給付の支給を受けることはできないと判断しました。
労働者が第三者の行為により災害を被った場合にその第三者に対して取得する損害賠償請求権は、通常の不法行為上の債権であり、その災害につき労働者災害補償保険法による保険が付せられているからといって、その性質を異にするものとは解されない。したがって、他に別段の規定がないかぎり、被災労働者らは、私法自治の原則上、第三者が自己に対し負担する損害賠償債務の全部又は一部を免除する自由を有する。
旧労働者災害補償保険法20条は、その1項において、政府は、補償の原因である事故が、第三者の行為によって生じた場合に保険給付をしたときは、その給付の価額の限度で、補償を受けた者が第三者に対して有する損害賠償請求権を取得する旨を規定するとともに、その2項において、補償を受けるべきものが、当該第三者より同一の事由につき損害賠償を受けたときは、政府は、その価額の限度で災害補償の義務を免れる旨を規定している。2項は、単に、被災労働者らが第三者から現実に損害賠償を受けた場合には、政府もまた、その限度において保険給付をする義務を免れる旨を明らかにしているに止まるが、労災保険制度は、もともと、被災労働者らの被った損害を補償することを目的とするものであることにかんがみれば、被災労働者ら自らが、第三者の自己に対する損害賠償債務の全部又は一部を免除し、その限度において損害賠償請求権を喪失した場合においても、政府は、その限度において保険給付をする義務を免れるべきことは、規定をまつまでもない当然のことであって、2項の規定は、この場合における政府の免責を否定する趣旨のものとは解されないのである。そして、補償を受けるべき者が、第三者から損害賠償を受け又は第三者の負担する損害賠償債務を免除したときは、その限度において損害賠償請求権は消滅するのであるから、政府がその後保険給付をしても、その請求権がなお存することを前提とする法定代位権の発生する余地のないことは明らかである。補償を受けるべき者が、現実に損害賠償を受けないかぎり、政府は保険給付をする義務を免れず、したがって、政府が保険給付をした場合に発生すべき法定代位権を保全するため、補償を受けるべき者が第三者に対する損害賠償請求権をあらかじめ放棄しても、これをもって政府に対抗しえないと論ずるがごときは、損害賠償請求権ならびに労災保険の性質を誤解したことに基づく本末顛倒の論というほかはない。
被災労働者らの不用意な、又は必ずしも真意にそわない示談等により、これらの者が保険給付を受ける権利を失い、労働者の災害に対し迅速かつ公正な保護を与えようとする労災保険制度の目的にもとるがごとき結果を招来するおそれもないとはいえないが、そのような結果は、労災保険制度に対する労働者らの認識を深めること、保険給付が労災保険法の所期するように迅速に行われること、ならびに、損害賠償債務の免除が被災労働者らの真意に出たものかどうかに関する認定を厳格に行うこと(錯誤又は詐欺等も問題とされるべきである)によって、よくこれを防止しうるものと考えられる。
本件において、Xによる請求権の放棄はその真意に出たものと認めることができるので、他に示談を無効とすべき事由が現われない本件においては、示談によりXの被上告人に対する損害賠償請求権はすでに消滅し、政府は、その限度において、保険給付をする責を免れたものといわなければならない。