遺族補償給付について、重婚的内縁関係であることが問題になった裁判例を紹介します。
東京地裁平成10年5月27日判決
遺族補償給付は、内縁の配偶者も受給資格者・受給権者です。ただし、重婚的内縁関係の場合は、原則、重婚的内縁配偶者は、受給資格者・受給権者になりません。
詳細は、以下の「遺族(補償)年金」を参照
しかし、この判決は、重婚的内縁配偶者に遺族補償給付の給付を認めた判決です。もっとも、判決は、法律婚が事実上の離婚状態であることを重視しています。
事案の概要
乙山一郎は、昭和63年2月1日に有限会社松原工業所の従業員となり、同年4月20日午後9時ころ、清水建設株式会社が元請事業者として施工する第二太陽ビル新築工事現場において、有限会社松原工業所の配管工として7階の便器取り付け作業中に脳出血を発症し、同年4月22日午前9時40分ころ、脳出血による脳ヘルニアのために死亡した。
亡一郎は、昭和39年12月、丙川月子と見合結婚をし、昭和40年3月22日、月子と婚姻の届出をした。昭和41年4月4日両名の間に長女雪子が出生した。亡一郎と月子は、結婚当初から亡一郎の母乙山M子と同居していた。
亡一郎は、友人と自動車整備工場を始めたが、友人のために多額の負債を負って全財産を失い、昭和42年9月に家族とともに北九州市小倉南区葛原に転居した。半年後債権者が葛原に取立てに来るようになった。亡一郎は、そのこともあって、その当時から月に半分くらいしか帰宅しないようになった。亡一郎に女性関係があったため、月子は、同年、亡一郎との関係修復を目的として離婚調停の申立てをしたが、亡一郎は、出頭せず、月子は申立てを取り下げた。月子は、昭和52年にも離婚調停の申立てをし、亡一郎も出頭したが、離婚の合意に至らず、月子は申立てを取り下げた。
亡一郎は、昭和46年ころまでは生活費の一部及び家賃相当額として月3万円を月子に持参していた。月子は、3万円では生活費が不足するので、昭和43年2月ころから働きに出ていた。亡一郎は、昭和46年に母M子及び妹S子とともに北九州市小倉北区真鶴に転居し、以後は月子に対し、家賃相当額として月1万2,000円を送金していた。送金は、月子が葛原に住んでいた間続いた。月子は、昭和54年9月30日まで葛原に住んでおり、その間亡一郎は時々月子を訪れていた。
月子は、家主に葛原の借家の明渡しを求められたので、同年10月1日北九州市小倉南区大字吉田の市営住宅に転居した。以後、亡一郎は月子を一度も訪れることがなく、月子と亡一郎とは完全な別居状態となった。月子は、社会福祉法人「A園」に寮母として働いていたが、上吉田の市営住宅に転居してから生活保護を受けるようになった。
亡一郎の母M子は、自分名義の郵便貯金口座に振り込む方法で、月子に養育費を送金していた。同口座の郵便貯金通帳は月子が所持していた。送金は、昭和54年12月10日から昭和58年6月7日まで続き、一回当たり1万2,000円、4万円が多く、1か月当たりでは1万2,000円から2万円程度であった。最後の昭和58年6月7日は5,000円にとどまった。この年は雪子が高校を卒業する年に当たった。
月子は、M子が上富野の家を明け渡した後は亡一郎の所在が全く分からなくなり、亡一郎と月子とは、養育費の送金を別とすれば、音信不通となった。
月子は、亡一郎が死亡したことを原告から人を介して連絡を受け、亡一郎の葬儀に雪子とともに駆けつけており、最後まで籍を抜くつもりがなかった。
原告は、同棲していた男性との間に長男太郎をもうけたが、婚姻の届出をしないままその男性と別れ、以後クラブで稼働しながら、長男太郎を育て、昭和54年12月には価格1,250万円の自宅マンションを自己資金600万円で購入し、同所で太郎と生活していた。昭和55年11月ころ、勤めていた店に客として来た亡一郎と知り合い、親しい間柄となって昭和56年11月には原告のマンションで同居するようになった。原告は、同居を始める前太郎に亡一郎を紹介し、太郎の納得を得て同居を始めた。原告は、昭和57年ころ、亡一郎が資金繰りに苦しみ、M子を住まわせていた上富野の家を債権者に取られそうになっていたため、亡一郎に対し、500万円を援助した。
亡一郎は、個人企業である清和工業を営んでいたが、昭和58年6月に倒産し、所有していた上富野の家も結局失った。亡一郎は、その後九州英工業という名称で管工事の仕事を行い、原告の自宅を連絡場所としていた。亡一郎は、昭和61年9月に出稼ぎに出て、沼津、所沢、川崎を転々としたが、3か月から4か月に一度は原告の自宅に帰っていた。亡一郎は、出稼ぎに出てからは、原告に対し、自分の口座の預金通帳と印鑑を預け、その口座に生活費を送金していた。送金の状況は、昭和61年11月26日に30万円、同年12月18日に14万円、同年12月31日に30万円、昭和62年2月25日に10万円、同年3月26日に15万円、同年4月27日に10万円、同年5月7日に25万円、同年6月3日に8万円、同年6月27日に10万円、同年7月27日に15万円、同年9月16日に7万円、同年11月7日に10万円、同年12月11日に10万円、昭和63年1月27日に10万円、同年2月29日に15万円、同年4月1日に10万円であった。
亡一郎は、原告と同居を始めてから昭和61年9月に出稼ぎに出るまでの間も、仕事で収入がある限りは、原告に生活費を渡していた。
原告は、亡一郎の内縁の妻であり、婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあった。
裁判所の判断
裁判所は、法律婚が事実上の離婚状態に至っていたこと、内縁関係が事実上婚姻関係と同様の状態にあったことから、重婚的内縁配偶者に遺族補償給付の給付を認めました。
遺族補償年金を受けることができる遺族につき、「労働者の配偶者、子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹であって、労働者の死亡の当時その収入によって生計を維持していたもの」と規定し、遺族補償年金を受けるべき遺族の順位を規定していて、民法の相続の規定にゆだねることなく、自ら受給権者の範囲及びその順位を規定している。しかも、受給権者の要件として「労働者の死亡の当時その収入によって生計を維持していたもの」と規定している。このような規定内容と、労働者の死亡によって失われた同人に扶養されていた家族の被扶養利益を補てんすることを目的とする同条の趣旨とに照らして考えると、同条にいう配偶者とは、原則として、婚姻の届出をした者を意味するが、婚姻関係が実体を失って形骸化し、かつ、その状態が固定化して近い将来解消される見込のないとき、すなわち、事実上の離婚状態にある場合には、婚姻の届出をした者であってももはや同条にいう配偶者には当たらず、重婚的内縁関係にある者が同条にいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」に該当し得るものと解するのが相当である。この判断に当たり、被災者と婚姻の届出をした者との間に婚姻関係を解消することについての合意があることは、必ずしも要件となるものではなく、別居に至る経緯、別居期間、婚姻関係を維持する意思の有無、婚姻関係を修復するための努力の有無、経済的依存関係の有無・程度、別居後の音信、訪問の有無・頻度等を総合考慮してこの判断を行うべきである。
亡一郎と月子とは昭和54年10月以降完全な別居状態になり、亡一郎が雪子の養育費を送金していたという事情はあるものの、それも昭和58年6月をもって終了し、以後は亡一郎と月子とは全く交流がなく、音信不通のまま長年が経過したものであり、他方、亡一郎は原告と内縁関係にあって夫婦共同生活を送っていたものということができるから、以上を総合的に考慮すれば、遅くとも亡一郎が昭和63年4月に死亡した時点までには、亡一郎と月子との婚姻関係は実体を失って形骸化し、かつ、その状態が固定化して近い将来解消される見込のないとき、すなわち、事実上の離婚状態に至っていたものということができ、他方、原告は、亡一郎と内縁関係にあり、その収入によって生計を維持し、「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」であったということができる。